この記事はさとびごころVOL.31 2017 autumnよりの転載となります。内容は掲載当時のものです。
村外山林所有者「山主」が、山林所在の住民「山守」に、森林の保護管理を委託した山守制度。その伝統がゆらぐ時代に、次世代山主が新しい「森とともに生きる」を模索します。
人間は金やー
以前、谷林業部(当時)の山守の御子息の結婚式があった。そのフィナーレの時だった。一緒に参加した山守さんが泥酔して大きな声で叫んだ。「人間は金やー」。 結婚される山守の御子息は弁護士、奥さんになられる方は医者だった。誰もが羨む華麗なる経歴のお二方を前に、感極まった山守さんの一言だった。一瞬の沈黙の後、会場は、どっと湧きあがった。同じテーブルについていた私は、恥ずかしいながらも、面白く受け取り、皆と同様大笑いした。
当時は、地球温暖化等環境に対する関心が高まっていこうとする時代だった。家業の林業に関わる事は環境に貢献できるやりがいのある仕事だと期待していた。しかし、林業の仕事に就いても、一向に環境を守る等のキーワードは出てこなかった。考えてみると当たり前のことだとは思うが、吉野林業を司る山守の方々の話題の中心は木材市場の相場がいくらだとか、当時川上村に建設中だった大滝ダムの山林土地買収がいくらだったか、どこに行っても、まずは、お金の話になる事が多かったように思う。どのような方法でどんな山を創ろうかとか、どのように立木を伐採し、搬出しようかとか、森林をどのように世の中の仕組みの中に入れていけば良いのか等という熱い議論には、あまり出会えなかった。尊敬する林業家の速水亨さんには「吉野林業はスゴイ。だけれども今の吉野林業から学ぶ事は何一つない」と言われる始末。私は、そんな吉野の林業のことが快く思えなかった。むしろ苦手だった。
泉先生から学んだもの
そんな出来事から十数年たち、吉野の林業に対する感情は変わらなかったが、目の前の自分の課題を解決するために、作業道開設に励む等、所有山林の管理に取り組み、それなりに充実した日々を過ごしていた。そんなある日、今までの自分の吉野林業観に一石を投じるきっかけをくれる人と出会った。愛媛大学の名誉教授、泉英二先生。学生時代の博士論文を「吉野林業の展開過程」というテーマで書かれた林学者だ。
泉先生によると、吉野林業は江戸時代に完成したとされる。その発展の流れを歴史的な背景と共に語ってくれた。「織田信長や豊臣秀吉が活躍した安土桃山時代頃は、人口は減ったか、それとも増えたかどっちだと思う?」林業とは全く関係の無さそうな問いかけから話は始まった。答えは、飛躍的に「増えた」。最大の要因は土木技術が発達したこと。それまで開墾できなかった土地が新田開発され、食糧の収量が増え、人口が増えた。家屋の建築も増え、城下町や宿場町等、都市が発展し、そこに旺盛な木材需要が生じた。それに応えたのが吉野林業だった。吉野の人々は、発達した土木技術を駆使して、木材を運ぶ物流ラインである筏の流走路を吉野川に築き、安定的に都市に木材を供給できた。
その頃には、まだ吉野の山には人工的な植林はされていなかったようだ。が、次第に伐採が進み尽山(つきやま)と呼ばれる状態が多くなり、豪華絢爛な建物を建設するための大径の立木は姿を消していった。植林が始まったのはこうした時代だったようだ。
その頃都市では、大径の丸太が供給されなくなっていたため、数寄屋風書院造という小径の丸太を使った建築様式が広がっていた。吉野からはそこに、大量の小丸太が安定的に供給された。このような建築様式は、千利休のような当時のクリエイターが考案したという話も加わり、話に華を添えた。
江戸時代には、米経済の行き詰まりへの経済対策として、余り米を酒にするという事業が始まり、神戸の灘等に新興の酒造地が発達した。酒を運搬するための酒樽には、百年生程度の吉野杉の丸太が適材として使われた。丸太は、比較的容易に加工できる樽丸にして、山から運びだすことができる上、筏として運び出される小丸太の上に積んで都市の市場に持ち込むこともできた。吉野林業が長伐期になったのは、この酒樽需要がきっかけらしい。時代のニーズと山の施業体系がバッチリはまっていた。
吉野林業では、多くの苗を植林し、成長に従って間伐を繰り返しながら、三百年ともいわれる大径の立木を育てていくというスタイルが標準だが、これも時代のニーズに対応しながら築き上げられたもの。間伐の度に伐採される木材は、その他にも農用資材や、建築の足場丸太などに売れ、余すところなく換金された。
吉野林業の商流を握ったのは、吉野郡の村人であり、山づくりをしてきた人々だった。彼らは材木商人として商売も行い、その集団として吉野郡中材木方という組織を形成した。このような江戸時代中期に築きあげられた仕組みによって、吉野の山からは金銀が湯水のように湧いてくるという状況が作り出され、その結果、造林した山林を投資物件として若齢の段階で所有権を先物売りし、経営権を自分達が握るという山守制度を築いたのだという。
その後も吉野林業は、明治、大正、昭和と時代に対応しながら繁栄を続けた。私の幼少期に出会った山守の人々の顔も思い浮かぶ。そして、冒頭の山守さんの発言につながっていく。
江戸時代中期までの吉野林業に想う
川上村には、現在でも二百年を超える人工林が点在している。谷林業にも少ないがそうした立木がある。それは吉野林業という仕組みに関わった先人達が築き上げたものなのだ。恐らく世界中どこを探しても、町と連動性を持ちながら広範囲に渡る素晴らしい人工林を築き上げたという事例はないのではないだろうか。
人口の増加や都市の発展等、時代の要請に適切に対応しながら、自らの裏山の自然資本をバックグラウンドに事業を推し進めていき、山間部の村人の山行きに多数の雇用を創り、都市部の庄屋等の投資家も仲間にし、山から出る木材を、しっかり売りきりながら、裏山には高樹齢の立木を創り上げて来た吉野林業の山守の先人の事業センスに感動した。
その後文化になって行く様な当時キラキラしていただろう流行や、当時の社会課題解決の一助も担っている。吉野の林業は、確実に世の大きな流れにコミットしてきた。江戸時代中期から数えれば、そのシステムは時代に対応しながら私の二十代頃まで、三百年という時を刻んだ。これからの吉野林業のあり方を様々に模索していた自分にとっては、目から鱗の話であった。
かつての自分の吉野林業に対するネガティブな気持ちは吹っ飛び、一気に尊敬に転じた。なるほどと思うと共に、これはただの事業ではないなと思った。現代版の吉野林業を作ってみたい。そう思うようになった。
吉野林業の歴史に学ぶ
現代版の吉野林業とは何だろうか? 今の時代は、森林に何を求めているのだろうか? 今を生きる人々が作る社会は、森林からの産物に何を求めているか? 今の時代のニーズを探りながら、そこに森林からの産物を落とし込んでいく。閉塞的な状況に陥っている吉野の林業を立て直すためには、先人に学び、その根底に流れている本質的な部分に学びなおす必要があるのではないかと思う。
谷林業では、3年程前から新しい事にチャレンジし始めた。都会の森林でイベントを行ったり、自ら需要を作り出すため薪ボイラーの販売を始めたり、地域コミュニティとの関係を作り出したり、潜在的な支援者を作るために温泉事業に携わったりしている。
木材生産だけの視点だけでなく、広く社会を見渡し、その時代の社会動向を見極めながら国土の7割近くを占める森林を創っていく。そんな壮大なコンセプトをもって日々に取り組めるなら、林業にはライフワークとしての魅力がある。今後も、現代版の吉野林業を再構築していくために努力していきたいと思う。
【谷林業】吉野の5 大林業家のひとつ。中近世以来、現在の王寺町の大地主として山林管理を手がける。2011 年、老舗でありながらベンチャー企業として「谷林業株式会社」と改称。若手人材の育成や、新規事業の立ち上げなどを展開している。奈良県北葛城郡王寺町本町2-16-36 TEL 0745 – 72 – 2036
さとびごころVOL.31 2017 autumn掲載