この記事はさとびごころVOL.44 2021 winterよりの転載となります。内容は掲載当時のものです。
村外山林所有者「山主」が、山林所在の住民「山守」に、森林の保護管理を委託した山守制度。その伝統がゆらぐ時代に、次世代山主が新しい「森とともに生きる」を模索します。
泉先生との出会い
高知県自伐型林業視察旅行後間もない平成26年の年末のこと。岡橋清元清光林業会長から「奈良で自伐型林業のフォーラムをすることになりそうなので、協力してや」というお話をいただいた。翌年初春に奈良県吉野郡下市町で行われる予定のフォーラムに私にも林業家として登壇せよとの話であった。「わかりました」と即答したものの、「自伐かあ」とモヤモヤとした気持ちがふつふつと沸き上がった。
林業界で親しくしている全国各地の知人達が自伐型林業活動とは主張が対立構造にあるらしいという噂を聞いていたので、自身が公式に自伐の方向に進んでいくことについては、複雑な気持ちを持った。日常的に絶大なサポートをしていただいている岡橋さんの選択に対する尊重は絶対的にあるが、それでも複雑であった。
フォーラムの登壇予定者は、私の他に、奈良県内で岡橋さんに作業道づくりを習いながら林業に取り組みだした若手を始め、岡橋さん達と同様の時期から取り組んでこられたベテランの方まで複数名いた。皆さん、吉野林業の山林所有者では規模の大きい方が多く、奈良県林業倶楽部(※)でお世話になっている方々でもあり、こうした方々と一緒にフォーラムに登壇できるというのは、これまでの谷林業の流れからすれば感慨深く光栄なことだと思った。
※奈良県の大規模山林所有者の親睦団体
登壇予定者たちは、中嶋健造さんと当日のコーディネーターを務められる愛媛大学名誉教授の泉英二先生との顔合わせの食事会を行い、翌年早々に、泉先生からそれぞれの林業の取組みについて個別ヒアリングを受けることになった。その後大変お世話になる現大和森林管理協会泉英二理事長との実質的な初対面であった。
「力をあわせて取り組むべきだ」泉先生に持論をぶつける
清光林業大阪本社での個別ヒアリングは、私がその日の泉先生のスケジュールの最後であった為、マンツーマンで行われた。私が関わる前の谷林業通称門前山の歴史的な話から山守制度の話、当時岡橋さんに習って取り組み始めた作業道開設や架線班の若いチャレンジャー達との取組み、チャイムの鳴る森での予想外の成果を得た話まで様々な話をした。
当時作成した事業仮説を語る為のビジネスモデル俯瞰図の話を交えながら、様々なセクターを連携させながら林業を展開すれば閉塞している林業事業のブレークスルーも可能かもしれない、などといった持論を展開した。
大学の先生とじっくり膝を交えて話をするのは、学生生活を含めても初めての経験だったので、今自分が出せる全てをぶつけるように一生懸命話をした。泉先生はとても真摯に聞いてくれたので、つい饒舌になって話をした。
ヒアリングが終わったのは、丁度夕方の17時頃。泉先生は当日は大阪に宿泊されるとのことだったし、まだまだ色々と話を聞いてくれそうな雰囲気を持っておられたので、少しお酒でも飲みながら話をしませんかと居酒屋に誘った。
居酒屋での話。「自伐型林業の方々は、速水林業のことを批判的に語られるが、泉先生は速水林業に足を運ばれたことがありますか。中間土場での木材販売や苗畑など速水林業の取組みや従業員のレベルの高さは素晴らしいです。もし行ったことがないなら速水林業を一度訪ねてみませんか」と私。さらに、「自伐型林業協会の中嶋さんが批判的に語られる現行林業の中にも、光る取組みは沢山あります。狭い林業界の中で頑張っている人々がお互いに足を引っ張りあうというのは、とてももったいない。戦うべきは林業界の外に対してであって内ではないと思う。林業界の発展のためには色々な主張を持つ関係者が良い所を持ちよって大きな連環系を創るために力を合わせて取り組んでいくべきではないかと思うんですよね」。
先生は、「あなたは将来の日本林業界を背負って立つ人材になるかもしれないね」という過分な評価をおっしゃってくださった。すぐ後に、先生は酒豪であり、お酒を飲んだ上の発言は結構忘れてしまわれるという重大な事実に気づくが、大学教授に評価してもらえたのは素直に嬉しかった。
また、泉先生は吉野林業の歴史の研究の大家でもあった。吉野の山主が自分で林業経営に乗り出したことがいかに画期的なことなのかという意義を教えてくれた。
吉野林業地で自伐型林業フォーラムを行う意味
歴史と伝統のある吉野林業地で自伐型林業フォーラムが開催されるということは、吉野林業地以外の林業関係者には、「吉野が自伐化する」というトピックばかりが目に入った。
それもそのはずで、自伐型林業推進協会のリーダーである中嶋健造さんのカリスマ性は、確かにスゴイものだったからだ。当時、国は高性能林業機械を、導入できる大きな道を入れて行う大規模な林業を、森林組合等の組織に山林を委託する形で行うことを推進していた。それに対抗する形で、小型の林業機械を使って、壊れにくい小さな道を使った小規模林業を、丁寧に自営型の森林経営管理を行う事業主体が持続的に行うべきだと主張していた。そして「自伐型林業こそが持続的な林業経営につながり森林林業、地方創生の特効薬になる」と世間に発信し、若いチャレンジャー達の熱い支持を得ていた。
そして吉野林業地の山林所有者のカリスマ的存在である清光林業岡橋さん兄弟が自伐林業の理想像であり、吉野では、それに続く山主達も自伐化の流れで動いているということでシンボリックに取り上げていた。
しかし、我々吉野林業の関係者にとっては、このフォーラムは本質的にもっと奥深い重要なテーマがあった。
吉野林業の歴史が変わりゆくうねりの中で
吉野林業は、江戸時代中期には既に完成されたとされ、その歴史は三百年を超える日本有数の林業地だ。吉野林業の主人公は、儲かる仕組みとそれと連動する形の森林経営管理システム、地域運営システムを築き、三百年にも及ぶ古木を山林内に林立させた経営者である「山守」衆だ。我々「山主」は山守衆が創り上げた巨大吉野林業システムという投資案件に後々になって投資した投資家という存在であった。
山守衆が経営し、山主が投資するという体制で、少なくとも二百年近い時間を過ごしてきたが、林業木材産業界の現状や先行き、山間部社会の今後の見通しを考えると、経営を支えた山守制度の維持は限界に達しつつあり、それ自体の変革か、それに変わる何かが必要だった。
投資家である山主が、山守の聖域であった経営に乗り出すということがタブー視される風潮の中、歴史的な経緯のもとで林地を集積した大規模山主が大橋式作業道をきっかけに直営化の動きに乗り出した。そして彼らがここに一堂に会したことは、今にして思えば、一つの時代の終焉と、新しい時代のはじまりを予感させるものだった。
山主の動き、自伐型林業、新しく山守に挑戦するかもしれない若手の出現、妙なシンクロがそこにはあった。長い歴史の中での変革期、そして林業政策の過渡期に、本格的な分かれ道を目の前にして、偶然に偶然が重なる状況があった。
私一個人の物語ですら四苦八苦してきたのに、それをはるかに凌駕するほどの大きなうねりの中にのまれていくような不安と期待の中で、奈良県での自伐型林業フォーラムは幕を開けた。
さとびごころVOL.44 2021 winter掲載