この記事はさとびごころVOL.38 2019 summerよりの転載となります。内容は掲載当時のものです。
村外山林所有者「山主」が、山林所在の住民「山守」に、森林の保護管理を委託した山守制度。その伝統がゆらぐ時代に、次世代山主が新しい「森とともに生きる」を模索します。
初めての架線の架設
平成25年11月、谷林業天川事務所から眺める天川村の大自然が紅葉にそまる頃だった。Get Cloud の吉野剛弘さんが「吉野」にやってきた。速水林業塾での出会いから約2ヶ月後の事だった。
久住さんと堀田さんが周辺の森林所有者との交渉や、間伐の補助金の段取りを済ませ、吉野さんの到着を心待ちにしていた。吉野さんの到着と共に、いよいよ架線班はスタートをきった。架線を張り上げる支柱になる元柱と先柱と呼ばれる二本の立木が決められていた。その二本の立木を結ぶ直線に、ワイヤーロープが張りあげられる。久住さんと吉野さんは、線道やセンターラインと呼ばれるその直線をコンパス測量と呼ばれる測量法で計り、線上にビニールテープで目印を付けていった。その線上にある立木は、ワイヤーを効率よく張り上げるのに障害になるので、前もって伐採しておく。センター伐採と呼ばれる作業である。
センター伐採が一段落すれば、いよいよ架線の架設作業である。本線と呼ばれる太いワイヤーロープ、本線に繋がれ自走しリモコンで伐採した丸太を運び出すラジキャリと呼ばれる林業機械、ラジキャリに通す本線より少し細めのワイヤーロープ、出材してきた丸太の枝を払い、適度な寸法に小伐るプロセッサーという高性能林業機械、小伐られた丸太を市場まで運搬する2トンダンプから滑車やシャックル等、見慣れない資材や機械、道具が搬入された。架線集材は素人では出来ない。技術が要ると聞いていた。架線技術者の1週間の研修を受けた事はあったが、これから何が行われるのか全くといって良いほどイメージがわかなかった。
西吉野町西日裏桑迫山林約5ha、本線距離約600m。谷林業架線チーム初の架線の架設作業。桑迫山林には、久住さんと吉野さんの谷林業架線チームに加え、作業道チームから前田君、後方支援チームから私と堀田さんが集結した。これから始まる架線チームの架設作業をみんなで手伝い経験するためだ。
まずは、センター伐採された直線にワイヤーを張り上げるために、リードロープと呼ばれる直径10mm のナイロン製のロープを約600m先の先柱に向けて運ぶ。先頭に吉野さん、その作業に私も加わった。最初の100m位は谷を渡って比較的平坦な場所だったので、600m位楽勝だなと思っていた。しかし、少し斜面が急になっていき、距離が伸びてくるにつれロープがやたら重くなっていく。確かに考えたら600mのロープを担げば、数十kgはあるだろう。それに斜面の伐採木や地面と触れる摩擦も加わる。残りの500m位は吉野さんと顔を真っ赤にしながら、やっとのことで先柱の下までたどり着いた。その後先柱の立木に吉野さんが登り、5m位の高所に滑車を取り付け、滑車にリードロープを通して、また来た600mを戻っていった。元柱まで戻り、リードロープに走行索として使われるワイヤーをつないで、ラジキャリの動力でワイヤーの先を先柱まで運んで行った。走行索が戻ってきたら、主索として使う太いワイヤーロープを先柱まで運んだ。
数日かけて、本線ワイヤーロープが張り上げられ、ラジコンキャリーの動作確認が終わった。
重いワイヤーロープを工夫しながら600mものスパンの架線を張り上げる技術って単純にすごいなと思った。支柱には控え索というワイヤーを張り、元柱と先柱の間の張力で支柱が倒れないようにする工夫をしたり、ワイヤーを張り上げる時に動滑車を利用したり。学生の時に学んだ事をフルに使って命がけで事業を行う。架線技術者は、相当頭が良くなければ出来ないなと感心した。当然、身体も動かなければならないし、知識も、それを活かす技術もマスターしていなければならない。外ではフォレスターの職業地位が高いと言われるが、日本の林業技術者もすごいもんだと久住さんの技術力に感心した。
その後の架線チーム
間もなく、架線による間伐作業が始まった。伐採した木をラジキャリで搬出し、土場まで運ぶ。プロセッサーで枝払いを行い、市場に出す適寸に小伐っていく。それを貯めては、木材市場や当時稼働しだしたバイオマスの発電所に運んでいく事を繰り返した。
赤や黄色に染まっていた周辺の山は、いつしか葉を落としモノトーンの冬を迎えていた。拠点になる谷林業天川事務所の周辺は標高も約600mと高く、雪の降る日も多い。私は、堀田さんと「天川90」と称して天川村周辺の森林調査を90日間かけて行うプロジェクトに取り組んでいた。吉野さんとは、約2ヶ月間天川事務所で寝食を共にしていた。ある日、夕方、事務所に帰ると、吉野さんが「谷さん、廊下に塩まきました?」と聞いて来た。「いや、そんなことしてへんで。なんで?」と答えた。「いや、廊下に白い粉が落ちてるんすよ。」慌てて二人で見に行き、恐る恐る踏んでみた。すると、その白い粉はすっと消えた。「雪や」。雨戸しかない谷林業天川事務所の冬。非常に劣悪な環境だが楽しい日々だった。
厳しい寒さの中でも、久住さんと吉野さんの架線チームは、熱心に、そして明るく日々を過ごしていた。林業歴のまだ浅い吉野さんに、先輩の久住さんは丁寧にわかり易く教えていく。様々なトラブルを経験しつつも、現場で議論を重ねて解決していく。ヒヤリハットと呼ばれる危険な事も経験しながらメキメキと力をつけていった。
その後、架線チームは、桑迫山林のほぼ真横にある白石山林に現場を移した。桑迫山林同様ラジキャリによる集材で行った。少しずつバージョンアップをしながらレベルアップしていった。
架線チームのSNS 発信
ちょうどこの頃は、我が林業界にとってシンボリックな時期だったと思う。前年の平成24年末まで政権与党であった民主党政権下において森林林業再生プランの号令の元、作業道開設等、今までにない位林業がスポットライトを浴びていた。時を同じくして作家三浦しをんの小説が、矢口史靖監督によって「WOOD JOB !~神去りなあなあ日常」として、長澤まさみ等有名俳優達によって映画化されていた。林業という言葉が巷を騒がせた。政権交代に伴い民主党政権から自民党政権に引き継がれた林業政策は、架線による搬出を重点課題としていった。
真面目で実直な久住さんと、やんちゃで人生経験豊富な吉野さんはとても良いコンビだった。テンポの良いかけあいは漫才のように面白かった。当時、流行に加速度がついていたFacebook等のソーシャルネットワークサービスをフル活用し、日常を発信していった。
架線の張り方や、伐倒の仕方、それぞれの夢、日々のささいな事、写真を交えてわかりやすく伝える。日本の林業と呼ばれるページも創られ、二人は、そして、谷林業も時代の波に呑まれていった。
そんな発信が目に留まったのか、国土緑化推進機構の発行する「ぐりーんもあ」、林業改良普及協会の発行する「現代林業」と言った林業系の雑誌だけでなく、「ソトコト」や「ディスカバージャパン」等発行部数が10万部を超えるような雑誌にも取り上げてもらう程になった。平成22年4月に前田駿介君が入った事で意図せず始まった谷林業プロジェクトは、わずか実働3年でなぜか世にでることになっていった。
Soup Stock Tokyo とツリーデッキ
作業道チームでの搬出の際は、伐採した丸太は、木材市場や奈良県森林組合連合会の集積場に持っていった。一般的な製材所や土木資材の用途で使われる。しかし、架線チームが伐採した丸太の一部は極めて魅力的な結末を迎える事になった。
Soup Stock Tokyo という日本発のイケてるスープ専門のファーストフード店の家具に使ってもらったのだ。岐阜県の飛騨高山や京都、大阪の家具屋さんに製材した材を届けた。出来上がった家具や什器は最終的にSoup StockTokyo 京都ポルタ店に納材された。同店に納材された家具はSoup StockTokyo のクリエイターの平井俊旭さんのセンスで極めてオシャレに彩られていた。初めて自分たちが伐採した丸太の顛末が見られるという事で谷林業ドタバタチームは、Soup Stock Tokyo 京都ポルタ店を訪ねた。女性客の多いファーストフード店だ。オープン間もない新しい店舗に似つかわしくない男ばかりの集団は不思議な雰囲気を持っていた。何も技術の無いところから始まったプロジェクトは、短期間のうちに最終製品の提供まで実現させた。一生懸命取り組んだなと誇らしい気持ちで美味しいスープをいただいた。
さらに桑迫山林で伐採された丸太の数本は、架線チームの段取りで吉野町の製材所で板材に挽いてもらった。その板材が王寺町の谷林業陽楽山林(通称:陽楽の森)に届けられた。そこに待ち受けていたのは、アーボリスト(高い木の剪定やメンテナンスを専業としている人のこと)として活躍するベルクジャパンカンパニーの西川正人さんと稲葉さんだった。この板材は、陽楽の森で開催されるイベントのシンボルとしてベルクジャパンカンパニーのお二人によって陽楽の森の中でも比較的大きなクスノキの木の樹上に創られるツリーデッキに変身するのであった。
厳しい寒さから新緑の時期を迎えた平成26年5月。このツリーデッキが陽楽の森のシンボルとして完成し、架線チームも含めた谷林業若手チームは衝撃的な体験をすることになった。いまや伝説になったイベント「チャイムの鳴る森」の開催である。(つづく)
さとびごころVOL.38 2019 summer掲載