少しごぶさたしておりました。
ご訪問くださった方、ありがとうございます。
奈良でSatobi(さとびごころ)という小さな雑誌をリトルプレスしているさとびこ編集室のあなんです。
日頃から、さとびづくりのヒントを得たら、その地へ行ってみるようにしています。それがSATOBITABI。どこからも交通費はでませんので、自腹です(笑)。
今の時代、ネット検索でおおかたの情報は読めますが、やはりその地に立ってみないとわからない感覚があり、年に1回か2回程度、県外へお勉強に行くのです。そうして、特集の企画を決断したり、次へのひらめきを得てきました。
11月の下旬は、関東方面をまわってきました。
あなんが何を見てきたのか、主なところをメモを兼ねて記録しておきます。
1.東京国立博物館(東京・上野)
2.国立歴史民族博物館(千葉・佐倉市)
3.寺野東遺跡(栃木・小山市の縄文遺跡)
4.根古谷台(ネコヤダイ)遺跡 (栃木・宇都宮市の縄文遺跡)
5.野洲麻紙工房(栃木・鹿沼市)麻のこと、ぜひ別記事で書きたいです!
6.昭和のくらし博物館(東京・大田区)
このほかに、現地でレンタカーを運転してくれたM部員のリクエストで、東京国立博物館の近くにある寛永寺、足を伸ばしてこの機会に鹿島神宮へもお参りしました。
ひとつひとつが長いブログになりそうなので(そんなことしたら読む人が退屈すると思います笑)、なんとか強く印象に残ったことを書こうと思うのですが、どれもインパクトがあり選ぶのが難しい。何かの機会にこれらの話には触れていきますということで、ごめんなさい。
それにしても、わたしの観点はいつも縄文なんだなあと。
有名な国立の博物館は、行かれた方もあるかもしれませんね。あなんはまだ行っていなかったので、足腰の立つうちに見ておかねば、という思い。まるで東京の人が正倉院展に来られるように、奈良のわたしが東京や千葉の国立博物館へ行くわけです。企画展のテーマが奈良に関係があったりしましたが、それはスルーして常設展示のみを見ました。それでも、全国のお宝がここに集まっているのですからすごい数。得に、歴博は常設展示だけでも6展示室。さらに暮らしの植物苑というめちゃくちゃ興味あるゾーンも(行けませんでした)。いやほんとに、各コーナーが独立した博物館だったとしてもおかしくない。関西でいうと、吹田にある国立民俗学博物館のように、1日で回るのはもったいない場所でした。わたしが目を奪われたのは第1展示室の古代。日本人のなりたちと縄文までで予定時間のほとんどを使い果たしてしまい、閉館時間を迎えてしまったのです。今まで調べてきたことがおさらいでき、うんうんと頷きながら、堪能しました。少し以前まで考えられていたような未開の人々ではなく、高度な技術を駆使して自然を相手に(自然とともに)文化を築いていたということがしっかり述べてあって、「よしよし」みたいな。
ただ、後で訪問する二つの遺跡でもそうなのですが、精神的なこと、哲学的なことについては学問的に論じることが難しいのか、避けてあるのか、ほとんど触れられていません。でも、わたしたちがこれから学んだほうがいいと思うのは、自然から与えられたものを資源に生きていくということを支えた心の部分だと思います。本を読んでも展示に添えられた説明文でも、「くわしいことはわかっていない」と書いてあったり、「解釈」として述べてあったりします。
そのぶん「想像は自由」という余地が残されていると考えて、わたしはいつも想像の旅をします。きっと自然こそが神様なのです。特定の教祖や経典をもたず、山、土、水、風、火、植物、動物、すべてのことにテレパシー的な能力で感知して理解していた。1万年以上続く長い縄文時代には気候の変動もありましたし、弥生に近づくにつれ、社会的な階層も生まれたそうですが、虐殺などはありませんでした。いっとき(有名な三内丸山遺跡の頃)ひとつの集落で200人、300人という大きな集団を形成していましたが、概して後期以後になると小さな集落に分かれます。気候の変化(寒冷化)に対応した結果と言われますが、その「対応」とは小規模化して分散することだとなぜ判断したのでしょうか。文化とは、人間がつくるもので、良くも悪くも必ず自然から何かをいただいて(奪って・反して)つくられます。ですから調和がポイントなのです。ここまでならやってもいい。これ以上やれば自分たちにとってデメリットが生じる。自然と直接的に関わっていたから、その加減がわかったのでしょう。主食だった堅果類ひとつとっても、全部奪ってしまえば、将来の自分たちの食があやうい。だから必ず加減したはずです。大集落を支えるために、収奪してしまうと調和が崩れて飢えることになると考え、分散したのだと思います。わたしたち21世紀に生きる者は、どうしてこんな単純なことを忘れてしまったのか。文化が発展しすぎて、自然への依存を捨ててしまったのか。
畑活をしていると、子どもの頃のどろんこ遊びや花摘み遊びをしてきた気持ちに戻ります。そしてわたしの中に微かに残っているはずの縄文DNAが、すこしだけ活性化されるように感じます。こうしていられるのも神様のおかげとしか言いようがありません。山も神様。水も土壌も与えてくれる、みだりに荒らしてはいけない場所であり、同時に里山では食糧も燃料も資材も調達でき、街に暮らす人たちは農山村の産物を購入し、お互いの生活と経済がなりたっていました。街の人たちは、農業や林業に直接従事していなくても、購入することで関わっていました。今の現実はどうでしょうか。
どうしたらいいの?と思ったときは、縄文人について思いをめぐらせ、もう一度自然の摂理に倣った暮らし方を取り戻し反映させていくことだと思えてくるのです(そのまま再現している達人もいらっしゃいますが、普通人のわたしはエッセンスを反映することを考えています)。そうすれば、この国土はわたしたちに答えてくれるはずではないでしょうか。でも、わたしは心配です。一見すると何事もなく存在している自然の風景は、実はとても危うくて、不調和をきたしていると考えているからです。当たり前にあると思っている田んぼの風景も、あと10年もしたら様変わりする危機にあると言われています。壊れてしまうと、人が恐れと不安を感じるようになり、争いが生まれやすくなることは歴史を見ればわかります。それって、不幸ですよね。これまでなんだかんだと言っても恵まれてきた日本。これからはどうなるでしょうか。本当に手遅れになる前に、現実的に危機を把握する情報集めと、「どうしたらいいの?」を求める行動(今すぐできる小さな一歩)が必要です。
昭和のある時期までは、まだここまで壊れてはいませんでした。不便もありましたが、自然の浄化力や復元力はしっかりと残っていたと思います。どんどん「便利」になり、お金があれば幸せになれると誰もが思っていた一方で、自然が壊れる方向での発展だけが進んでいきました。どこかで、狂い始めたはずなんです。
昭和のくらし博物館は、戦後直後の民家を再現された場所でした。縄文時代的な社会に戻ることはもはやできないにしても、昭和の暮らしは現代のライフスタイルに直接のヒントになるところがありますね。日本人の基層文化が大きく変わったのは、なんといっても戦後です。わたしは日本史を戦前戦後で区切ってもいいくらだと思っています。今の日本の課題は、結局のところ「戦後」から発祥していると思いませんか(わたしも含めて戦後しか知らない世代ですので、戦前を知ることよって初めて今を俯瞰して見ることができます。悲しく辛い事実だけでなく、戦前の人たちがいかに豊かに暮らしていたかという観点もありだと思うのです)。
これからは、不便なように見えても大事な役割があること、なくてもいいもの、なくては困るものを選んで、「戦後」を変えるライフスタイルを作り出していく時なのだと思います。わたしに完全無欠の答えがあるわけではございません。みなさんと共に考えて、できることを行動していく、それを積み重ねるだけしかできません。ますます、本当の自分の声をよく聞いて、残された自然の恵みや豊かさを守るだけでなく壊れた調和を再生していけるように、「どうしたらいいの?」を求めていきたいと思います。縄文人の遺跡は1000年かかって作られたものでも未完成です。そもそも完成を求めていなかったのです。完成や理想は、誰にとっても一生かかかっても届かないもの。だから、できることといえば「近づく」ことだけです。100年住み続けたい地域づくりも、同じだと思っています。
なんだか、そんなことを考えながら戻ってきました。11月ももうすぐ終わり、いよいよ冬号を詰めていかなくては。焦ってきたぞ!
PS 写真をたくさん撮りましたが、自分用のメモ目的で、投稿できるようなものはほとんどございませんため、文章ばっかりになりました。ごめんなさい!最後に、博物館ではいつも楽しみにしているジオラマを。人々の服装がジャージとか作業服だったら、最近までの田舎の風景とそんなに変わらないと思いませんか。わたしたちは、最後の縄文人なんですよ、きっと。
じわじわと読まれて、増刷したvol.36、それも残りわずかとなりました。再増刷はいたしませんので、奈良の縄文を知りたい方は、今のうちにぜひどうぞ。(でも、縄文企画は再び何かやると心に決めています^^)
さとびごころ vol.36 特集 縄文の奈良