この記事はさとびごころVOL.45 2021 springよりの転載となります。内容は掲載当時のものです。
三浦雅之&阿南セイコがゲストをお迎えしてインタビューする連載
GUEST 杉浦英二さん(杉浦農園Gamba farm 主宰)
HOST 三浦雅之・阿南セイコ
よそ者の距離感
阿南:今回は、現在コラムページで連載をしていただいており、かつては35号の特集(※)でもご紹介した杉浦さんをお迎えしています。農つながり&浦々つながりの三浦さんとの対話から、どんなお話が飛び出すでしょうか。
※本誌vol.35(2018.autumn)特集農がつなぐ人と土 「ひとりでやらなくていい。あきらめない無農薬栽培」
三浦:さとびを通じて杉浦さんの取り組みは読ませてもらっています。
杉浦:農業を始める前、三浦さんのお店粟さんに見学に行ったことがあり、今日は再会できて光栄です。当初は、伝統野菜を通じて村のコミュニティを復活させるというコンセプトでしたね。
三浦:そこは今も変わらずです。前職は、社会福祉の研究所に勤めていて、妻も看護師でしたので医療と福祉が原点です。国家予算の三分の一が失われていく医療福祉業界に対してなにかロールモデルを作れないかと、その方法論をフィールドワークを通して模索しているうちに、伝統野菜が残っている地域は健康寿命が長かったり、生物多様性が保たれ景観が継承されるとか、いじめの問題が少ないとか、神楽などの伝統芸能が残っているなどの相関関係があることがわかりましたので、そんな昭和30年くらいまでの農村コミュニティを現代的に再構築できないかなというところでスタートしたのがもともとのきっかけなんです。
杉浦:清澄の里で活動をされるようになって、地域での信頼関係をどう築かれました?
三浦:ぼくらの地域(旧五箇谷村清澄)で誰もから尊敬されている長老のような方に認めてもらえたことは大きかったです。「イノベーター(変化をつくる人)でいてほしいから必要以上に入りすぎるな、問題があるならちゃんというから」と。僕らは今でも半分はよそ者ポジションです。
杉浦:清澄の里って、羨ましいです。僕がいる集落では、長老にあたる方が以前はいたらしいんですけど、亡くなられてからはいません。そのためか、なかなかひとつにはまとまれないと感じてます。
タイプの異なる中山間
杉浦:こないだ52歳になり、今のうち…あと5年以内に、次に来る人を迎えて地域を継承したい思いがあります。三浦さんはどうですか。
三浦:そうですね。「何がなんでも自分が」と思わないよう、わきまえないとあかんとは思ってますが、ご縁のある方には継いでいきたいと思ってますし、それは粛々とやっています。早い話、次々と唾をつけて育成してます。
杉浦:地元の中に次の世代が育っているのって、すごいな。育成を学びたい。僕らのところは大体が70代、80代。50代はいなくて、その他は数えるほど。70代の人たちは、リーダーシップをとることで目立つのを避けたいと思う人が多い。後ろ指さされますのでね。
阿南:杉浦さんがその地域の新しいキーパーソンになられたら。
杉浦:今の僕がいる集落では、それしかないかなと思い始めました。外から次世代を引っ張ってきて、僕と同じ苦労を若い人たちがしなくていいように、僕が間に入って育てていくようにしていかなあかんなって思います。
「なんで棚田を守らなあかんねん?」「そんなことして何になる?」と聞かれます。その答えはうまく説明はできないんですが、棚田って野山と平坦部のボーダーラインじゃないですか。日本にむちゃくちゃあるこういう場所がほぼ過疎化していってます。その時何が起こるか。そこに人が住んでいることによって、野生動物のいる山地と平坦部を分けていたと思うんですよ。山に適度に入って炭を焼きながら動物を追いやっていた。炭焼きがなくなり、田畑をやる人もいなくなり荒れますよね。すると野生動物たちから直撃です。これって、やっぱりあかんのちゃうかなって僕は思っているんですよ。
つまり、膨大な棚田を一人でやっていても意味がないんです。人がいるから動物も入ってきにくいわけで。里山はITC 化や自動化をしなくていいんです。
三浦:僕たちはリアルコミュニティは豊かです。地域の継承の取り組みもあるし、関係人口を育てていくという両方がある。
僕ね、ある意味羨ましいんですよ。関わりしろの伸びしろがすごくて、杉浦さん次第で未来を存分に描き、新しい事例をどんどん作っていけますよね。僕はずっと両方を見ながらやっていかないとけないんで。杉浦さんから見てうちが羨ましく見えることと表裏一体ですけど、これが都市近郊の中山間地の特徴であり、過疎化の激しい中山間との違いですよね。
自分を動かしている源
三浦:御所で活動を始められて18年目…その間、信念を持ってまっすぐに行動されています。僕が一番伺いたかったことは、その一番の原動力は何なんだろうと。七つの風で言うと風情の部分になると思います。
杉浦:そう言ってもらえてすごく嬉しいです。正直そんなこと自分では考えたことがなかったんで、今聞かれて何やろう? と思っています。三浦:そこに惹かれていらっしゃる人たちがいるということだと思うんですよね。
杉浦:若い頃から変わり者で、僕だけが笑うところが違うとか、みんなが興味を持つところに興味がないとか。何をしたいのかわからなくて考えていた高校のとき、本屋で植村直己の本を見つけてそのまま7冊立ち読みしてしまいました。「俺、冒険家になろう!」と思い、それからもう、「なりたい!」っていう一心で奇抜な行動をとり始めます。南極に行くためには寒さに強くならなくてはならないからと、学校に冬に雪駄を履いて行く。背中に百科事典を背負って歩く。夜中はランニング。ローブを登って筋トレ。とか。
実家の米屋を中学から手伝っていて部活ができなかったので、大学では探検部に入いりました。2年以降は合宿をするんですよ。みんなは動物探検とか激流下りとか、海外の民族調査とか。僕は絶滅視されていたニホンカワウソを追いました。3年間ずっと高知県に通って日本カワウソ探し。四万十川、大堂海岸などを糞や足跡などを探して踏査。痕跡を見つけたら大阪市大の教授のところへ持って行って鑑定してもらうんです。完璧に変わり者ですね。
三浦:自然がお好きであることと、アスリートであることは間違いないなあ。
杉浦:鍛えることだけはやっていましたね。痕跡は見つかるけどカワウソはいなくて、なんで減ったのか村の人への聞き込み調査もしていました。昔は四万十川には鮎がいっぱいいて、カワウソもいたというんです。それが30年くらい前に結構きつい農薬を使い始めて、「わしらが撒いたら鮎がプカプカ浮いた」と。カワウソって1日にたくさんの魚を食べないと生きていけないので、餌がなくなって川のカワウソが絶滅するんです。海にもいるんですけど、海のカワウソは護岸工事で絶滅する。
ふと、自分は農学部だったなと思いました。だったら農薬も関係している。その時、有機農法に興味を持ったんです。それで、当時能勢で有機農業をしている人のところに行って学びかけたこともあります。
要するにカワウソを救うためには、農業からの排水が大事だと。農学部に入ったのは農業に興味があったというより、生物が好きなためでした。会社を辞めるとき、まずカワウソのことを思い出しましたね。僕は、会社ではダムや橋、道路の建設工事に関わっていたので、結構自然を壊しました。「ここにはオオタカがいるかも…」と思っても、工事のためには森を伐採します。それを繰り返しながら、もう一度農業したいなあと。するんだったら有機農業やなと。そのエリアをカワウソが住めるような場所にしていきたい。それが最初の起点なんですよ。
三浦:めっちゃつながりました。結局のところ、自然愛。ストンと落ちました。僕も生物はむちゃくちゃ好きです。
杉浦:別に今の里山にカワウソが住むわけじゃないけど、そういう環境を作るには地域をまるごと変えていかなくちゃと思うから、声がかかる度に田畑を借りていきました。でも野菜セットの質が落ちてきたり、手がまわらなくなったり。
三浦:原点がカワウソだから、無理やりにでもやっちゃう。その無理が結果的に杉浦さんを応援したいという人たちの関わりしろを作っていったんですね。その作り方はノウハウ化すると陳腐になってしまうもの。まるで人生を冒険しておられるようです。
杉浦:アホなんですね、やはり。
未来の里山
杉浦:畑に始まり、酒米を作ることになり、蕎麦作りも始めました。蕎麦の後には葉物がよく育つので驚いています。収穫した蕎麦を有名店で試食してもらったところ、「これなら買いたい」と認めてもらえました。いつか、蕎麦小屋を立てたいです。最近は、耕作放棄地を開墾した場所でぶどうの栽培も始めました。
三浦:杉浦さんの農園、機会があれば見てみたいなあ。
杉浦: 明日にでもぜひ来てください(笑)。ボランティアハウスがあるので、泊まっていただけますよ。
阿南:いずれ、ぶどうでワインができたら、乾杯しましょうね。
さとびごころVOL.45 2021 spring 掲載