SATOBITABI 【2】からの続きです。ブログを覗いてくださって、ありがとうございます。今回のシリーズ最終回です。
【OPTION】 馬高遺跡とドナルドキーンセンターへ 3日め (2024年11月16日)
馬高遺跡(正式には「馬高・三十稲葉遺跡」)は、旅行計画を作ってくれる人(M部員)から「近所に馬高遺跡っていうのがあるみたいだよ。行く?」と教えられ、よく知らないままに「行くー」と答えたために立ち寄りましたが、行ってみてわかったことは、ここが火焔土器が最初に発見されたところだったということ、そのとき「火焔土器」と名付けられたことでした。
入口にどーんと。縄文文化の王者のモニュメント。
下記は、展示施設である「馬高縄文文化館 火炎土器ミュージアム」展示室の入場口にあるメッセージ。
「しっかりと後世に守り伝えていきます」の一文が印象的でした。すぐ近くに県立博物館があるうえに、別途この縄文館が作られたことには地元の気合いを感じます。
意外に一番よかったのが、下記の年表です。気候といっしょに時代を見ていけて、大変助けられます。縄文のことをまだよくわからなかったとき、「かつて、東京はほとんど海でした」とか、「今より2度気温が高かった」とか、「寒冷化で人口が激減した」とか、あれこれ知識が散らばってしまいました。(アホか?と思われます?たしかに、そうなんですけど、逆にわたしでわかることなら、他の人にも難しくないんじゃないかなあと思って告白しております)期間が長すぎて、気候変動が起こっており、縄文時代の「いつ」なのか?を前提に設定しないと混乱するのです。
現代、地球温暖化によって平均気温が2度上がるとおしまいだ!というふうに言われていますけれど、日本列島では今より2度高いとか、7度低いとかの大きな気候変動が何度か起こっており、困難に遭いながらも生き延びてきて今があることは、忘れたくないことです。
前の記事でも引用した年表になります。草創期は氷河期の終わりですので、気温は低かったり温暖だったりしています。それから早期になると対馬海流が流れこんできて温暖化、前期には縄文海進。遺跡も増加。そして最盛期の中期へ。この時代に火焔土器様式の文化が栄えました。
また信濃川周辺の遺跡数が中期に突出して多いことも、グラフでよくわかります。つくづく、特別なゾーンなのだなあと。
この日も見学者はわたし1人。写真撮影もOKでした。
外はいい天気。
竪穴式住居は、何度も見ていますが、やっぱり見ておきたいわたし。
室内の腰壁のようになっている高さのぶんだけ、穴になっています。そしたら、雨が入ってこないの?と思いましたが、家の周囲に溝を作って防ぐことができたと、どこかで読みました。
縄文村がある場所は小高いところ。眺めがいいです。
この間、M部員とバジル(編集部マスコット犬・保護犬出身)がじっと待ってくれていましたので、このへんで切り上げました。
その後、三条市のほうへ親交のある会社を訪問しました(それは別記事で書きますね)。そして出雲崎の「汐音(しおん)」という店ででランチ。ボリュームがありすぎて、お持ち帰りしちゃいました。
そして最後は、柏崎市へと移動して、M部員がぜひ訪ねてみたいと言う場所へ。お菓子のブルボン社の出資による私設資料館ドナルドキーンセンターです。なぜ、柏崎にドナルドキーンの資料館が?なぜブルボンが?それはぜひM部員の語りを聞いてあげてください。
わたしがここで一番素敵だと思ったのは、ドナルドキーン氏のニューヨークの書斎が再現されていた空間でした。かつては、このようなインテリアに憧れました(今は昭和モダンなスタイルに落ち着きましたけれど)。
本や家具は本物だそうです。素敵です。こよなく日本文学を愛して最後は日本人になられたドナルドキーン先生が、お住まいになっているかのような雰囲気を感じていただけますでしょうか。その写真を紹介して、今回の旅の報告を終わります。
柏崎から寄り道なしでひたすら奈良へ。無事に帰ってまいりました。
奈良の縄文を特集したvol.36 再入荷しました。
【1】【2】は下記より