この記事はさとびごころVOL.51 2022 autumnよりの転載となります。内容は掲載当時のものです。
奈良の地酒ブランドの持続的成長を支えてきた地元の「小さな酒屋」の物語。
今回は、米惣よしむらの店主、吉村宗規さん(1958 年生)の物語です。
20歳で家業継承
米惣よしむら(創業時は吉村商店)は、吉村さんの曾祖父の代より旧村部にて酒や米の小売業を営んできた。父親(3 代目)が店主を務めていた1970 年、現在の所在地(旧村部の外縁、その後に開発が進む新興住宅地に近い場所)に店を移転。さらに、その2 年後には、当時関西を中心に全国展開していた「K マート」チェーンに加盟し、従来の酒・米に加えて各種生鮮食品を取り揃えるミニスーパーとなった。このような業態転換の背景には、「もっと買物に来てもらえる店にしたい」という父親の意向が強く働いていたようだ。
1978年、家業は大きな危機に直面する。一家の大黒柱であった父親が癌を患い、51歳の若さで他界した。当時大学で化学を学んでいた吉村さんは、大学を自主退学し、父親が残したミニスーパーを引き継いだ。4代目店主となった彼はまだ20歳であった。
1980 年代に入ると、スーパーマーケット業界でも競争が激化。従来のビジネススタイルに限界を感じるようになった吉村さんは、1985年、改めて祖業である酒類小売業への業態転換を図った。その際には、店の売場面積が従前の半分以下に縮小されるとともに、店の名称が現在のものに変更された。リニューアル当初、日本酒に関しては、問屋経由で仕入れられるナショナルブランドばかりが店頭に並んだ。当時を振り返り、吉村さんはこう語っている。
「その頃はまだ宅配が全盛で、ビール類などの安売りもまだまだ対岸の火事ぐらいにしか思っていませんでした。やがて近くに酒ありの大手スーパーや酒類ディスカウントが出店してきました。そんな時期にある問屋さんからの提案で、純米酒を仕入れることになりました。試しに数アイテム、最初は県外のお酒ばかりでしたが、仕入れてみたら、瞬く間に売り切れました。それから、自分なりにいろいろ試行錯誤しながら純米酒を仕入れて売っていましたが、何か『物足りなさ』を感じていました」。
地酒への専門特化
転機は1990 年代初頭に訪れる。吉村さんは、ある問屋主催のイベントで大阪市内の同業者と知り合い、その紹介により酒販店情報ネットワーク(本誌第48号参照)に加入した。
「当初は正会員ではなかったので、奈良ブロックの会合にオブザーバーとして参加しまして、大変熱心な同業者がいることに驚きました。最初に参加した会合は桜井市の酒屋さんで行われたものです。お店の営業が終わってからなので、はじまりは夜9時、終わりは深夜の2時過ぎ。帰宅してからも興奮して朝まで寝付けませんでした」。
その場で吉村さんは、登酒店の店主、登和成さん(本誌第44号参照)、もも太朗の店主、杉本憲司さん(本誌第49号参照)と出会い、2 人から大きな影響を受けることになった。 「登さん、もも太朗さんと出会い、いろいろと親交を深めたのが自分にとって本当の意味で奈良の地酒との出会いでした」。
その後、酒販店情報ネットワークの奈良ブロックの会合は主に登酒店で行われるようになり、吉村さんは毎回欠かさずそれに参加した。
「登さんのところで、多い時には月に2 回以上ありました。会合が夜中の12時頃に終わった後、何人かのメンバーが居残り、気が付いたら朝の6時頃まで話し込むこともありました。そこでの話が後々すごく仕事に役立ちました」。
「定休日が同じ月曜日だったこともあって、もも太朗さんには県内あちこちの酒蔵に連れていっていただきました。初めて伺った千代酒造さんでは、その場で純米の無濾過生原酒を仕入れさせてもらえることになり、その時、もも太朗さんから丁寧な説明を受けました。それから、店に来られるお客さんに試飲してもらいながら販売しました」。
当時、吉村さんは、地酒商品の宣伝チラシを自ら作成し、終業後にバイクに乗って地元広陵町とその隣接地域を回り、一般家庭一軒一軒にポスティングするという地道な営業努力を長期にわたって続けた。
こうして、吉村さんも、登さんや杉本さんと同様、地元奈良を中心に、酒蔵との直接取引を積極的に行なう地酒専門酒販店の道を邁進することになった。その頃には、数年前に感じていた「物足りなさ」が完全に消え去っていた。
登さんは、吉村さんの特徴(個性)に関して、「器用で凝り性、機械いじりが得意」と述べている。それは酒販店経営にも大いに活かされており、たとえば、店のバックヤードに配置されている大型のプレハブ冷蔵庫は、彼が部品を取り寄せて自作したものであり、完成品を購入するより大幅なコストダウンになったという。また、店内で使用されているパソコン数台も自ら組み立てたものであり、店のホームページも自ら立ち上げたものである。
「このお酒、みんなで売ろうかぁ」
前出の酒販店情報ネットワークへの参加を通して生まれた同業者との「横の連携」は、吉村さんにとって大きな意味をなした。
「情報ネットワークに参加する前、同業者との付き合いと言えば、小売酒販組合ぐらいで、腹を割って話をする関係ではありませんでした。情報ネットワークの人たちは、遠慮なしに本音で意見し合います。ある時、うちに来た木寅くん(※)が言うんですよ、『吉村さん、ここ汚いから、ちゃんとしたほうがいいよ』って(笑)。そんなことを言ってくれる同業者はそれまで一人もいませんでした」。
※本誌第48号で紹介した、西ノ京地酒処きとらの店主、木寅伸一さんのこと。
さらに、吉村さんは、登さんたちに誘われ、暁会(梅乃宿酒造の販売促進に協力する地元酒販店のネットワーク)にも参加するようになった。「ある時、暁会のメンバーで、梅乃宿さんのご自宅に寄らせてもらい、蔵で熟成したお酒を利かせてもらったんです。その場で『このお酒、みんなで売ろうかぁ』って話になりまして、この関係ええなぁと、本当に夢のような話でした。… その関係がなかったら、今の自分はないと思います」。
父親の早逝により20歳の若さで家業を引き継いでから暗中模索の日々を送った吉村さん。「小さな酒屋」仲間との緊密な交流により、長くつづいた孤独感から解放され、地酒専門酒販店としての矜持を確固たるものにした。
次世代へのバトンタッチ
家業を引き継いでからすでに40年以上の歳月が過ぎ、吉村さんも次世代へのバトンタッチを考えるようになっている。
「今まで通り、地酒を軸にしつつ、それに加えて何か別の面白いことに挑戦できたらと思っていますが、それは次の世代に任せようかなと…」。
現在は会社勤めの長男がいずれ家業に加わる予定であるという。ITに明るく、すでにその方面で家業をサポートしている。
「自営業だと、ちょっとした空き時間に自分のしたいことをパパっとできますよね。息子が言うんです、『それ、ええなぁ。会社やったら考えられへん。自分とこの家で仕事してたらできるなぁ』って(笑)」。
「働き方改革」が叫ばれる昨今、自営業ならではの労働時間の融通性は、「タイムリッチ」な働き方・生き方を可能にするものであるのかもしれない。
さとびごころVOL.51 2022 autumn掲載
文・河口充勇(帝塚山大学文学部教授)