2020年、コロナで外出制限されていた時期に畑と縁をもらい、いつかやりたいと望んでいた畑活にチャレンジ。
どうせやるなら「なるべく自然栽培」。ナスをいつ植えるのかも知らないレベルの右も左もわからない人なのに、やってみたかったことを実行できる嬉しさでいっぱいでした。それから、調べる調べる…やってみるの繰り返し。(そのわりには、上達していませんが)
畑活(家庭菜園のこと。栽培だけでなく、暮らしに農的な要素を取り入れる畑活動)
何々農や、何々栽培、いろんな考え方と方法がありました。
その中で、だんだんと自分に合ったやり方を見つけてきた感じ。
心にいつもあったのは。
「続けたい」ということ。そのためには楽しみたいということ。
楽しむためには、あまり自分に厳しくせず、自然の力を頼る(不耕起、季節に合う露地栽培)。
続けるためにも、お金をかけすぎない(堆肥、肥料、薬、資材)。
この話を聞いてくれる人がいるなら、あれこれたくさん話したいくらいです(笑)。
その結果、生ごみコンポストと草刈りは日常化しました。そして、プロのように高度な管理をしない(能力的にも時間的に無理あり)ことによって、わたしの力では野菜の収穫量は少ないということは判明しました。
少なくても丁度いいのが「二人暮らし」ではあるものの、あまりにも出来がよくないのは、やはり寂しいものです。畑活をやってよかったと思うことは、あのお店に並んでいる野菜たちは、偶然ではなく、農家の方の技術の賜物であることがよくわかり、「リスペクトしてやまない」という気持ちになれることでした。
自然にうまれてくるリスペクト
同時に、たとえわたしがぼーっとしていても、自分で育ってくれる野菜たちのことも同じくリスペクト。
畑の中で勝手に生える作物が増えるのが楽しいのです。
毎年、どこからともなく育ってくるハーブは、ほんと嬉しい。
野菜も、(残したつもりはなくても残ってたりする)その場所に置いておいたら来年どうなるのかしら?というお試しもしています。今年はじゃがいもができそうです。去年はかぼちゃができました。面白いですね。これは、トラクターで「がーーーーっ」と耕さないから、可能になります。土を激しく深く入れ替えたら、種は土の中に沈んで発芽しないでしょう。不耕起の面白いところ。いちごは3年目。いちごだらけにしたくて広げてきましたが、そんなことすると実りが悪くなるそうです!だけど、畑のおやつとしては食べられます(笑)
トラクターのような高価はものは持てません。置く場所がないですし、燃料代もかかりますし。
手作業で管理できる程度の小ささで、チョコザップに行くかわりに体を動かすのがわたしの畑活。
枯れ草(刈った草が茶色に変わったもの)だけでなく、生きた草もマルチとして仕事してもらうため、畝の雑草も低く刈って残します。畑に足を運ぶ度に、土にひざまづき、ちまちまと整理です。土の上にいること自体が気持ちいいい(日頃マンションで暮らしているせいでしょう)。雑草や虫が目線に入ってくると「おまえは誰や?」と挨拶するのも楽しい(でもカメムシとアブラムシはマイルールにおいて御法度)。「これは、野菜じゃないの?」と、気がついたら刈らずにキープ。
原理原則を感じられるようになった
どんな栽培方法でも、土が呼吸すること、水が溜まらないこと、光が当たること、強すぎる風が当たらないことなどは共通しているとわかってきたので、その原則は守るようになりました。あとは、その土地の風土や畑地の条件によって、まさに十人十色であろうかと思います。こうすれば大丈夫!というものは結局なくて、「いいかも」と思ったことをやってみる、失敗しても「またひとつわかった!」と思ってまたやってみる。
心から感謝して食べられるようになった
畑で育ってくれた野菜はもちろん、購入した野菜であっても、「よくぞ育ってくれました、自然の神様、農家さん、わたし、よくぞ育ててくれました」と思えることは、食事を数倍美味しくしてくれます。また、病気であったらならば食べても美味しく感じないものですから、美味しいと感じられるのは、今日も健康であったおかげでもありまして、なんでもかんでも有り難く感じてしまう傾向が強まっております(笑)。
写真は、今年採れたえんどう豆のごはんと、早生玉ねぎのスープ。めちゃくちゃ美味しかった!
いつまでも好奇心を失わない対象を持つことができた
何事も、同じことの繰り返しだけでは飽きてきますが畑活にはそれがありません。未経験出身ということもあり、知っても知ってもその先にまだ知らないこととの出会いがあるので、この歳になっても「わあ。トリビア!」な出来事に溢れているのです。知るだけでなく、感じることも同じ。風、光、鳥の声、土の湿り具合、新しい芽吹き、調子の悪い葉っぱ、季節によって種類が変わっていく雑草、ウェルカムなお客様であるてんとう虫、毎回毎回、なにかあります(失敗も含めて)。
売らない野菜のいいところ
売り物になるような品質のものは作れないですし、作るためには無数の「こうでなければならない」という縛りが生じるもの。それをクリアされているのがプロの技。わたしは、生活を楽しみ、自然の摂理に親しむための畑活をしているので、収穫量が寂しくても問題はなく、出来たものをいっそう喜んで食べるだけなんです。もし、それぞれの人が、それも「野菜は100%買っています」というふうな、農と接点のなかった人たちが、自分に合った楽しい畑活をしたくなり、知り合いやご縁をたどって耕作放棄地を農地として保てるようになったら…という願いもこめながら、畑に通っています。
畑活だけが答えではなく、地域の農産物、国産の農産物を選ぶ消費者だらけになることも、同じような価値があると言えます。今のところ、国土のほとんどは森と農地。それが、荒れ果ててしまう前に、100住み続けたくなる自然豊かな地域づくりが進みますように。。。
PS 今年から阿南家に迎えた保護犬バジル 畑にも慣れてきたけど、種を植えた畝を荒らす。