この記事はさとびごころVOL.47 2021 autumnよりの転載となります。内容は掲載当時のものです。
奈良の地酒ブランドの持続的成長を支えてきた地元の「小さな酒屋」の物語。
今回は、田原本町に店舗を構える、酒のあべたやの店主、村井誠さん(1961 年生)の物語です。
地酒への専門特化
1990 年代は「小さな酒屋」にとって大きな転換期であった。急激な規制緩和によりスーパーやコンビニでも酒類の販売が可能となり、「小さな酒屋」は国の保護下から一転して厳しい市場競争にさらされることになった。「小さな酒屋」が生き抜くには、従前の経営スタイルを改め、自らの個性(強み)を徹底的に磨くことが求められるようになった。
1983 年の大学卒業後に家業に従事するようになって7 ~ 8 年、三十路を迎える頃の村井さんが直面したのはまさにこのような危機的状況であった。暗中模索のなかで見出した生き残りの道は、地酒への専門特化。最初に頼りにしたのは、本誌第44号で紹介した登酒店(天理市)の店主、登和成(かずしげ)さんであった。もともと村井さんの祖父と登さんの父親が親しい間柄であり、2 つの酒屋の間には長期にわたる親密な交流があった。
「登さんのところには見たことのない酒がいっぱいあり、それを買って飲み、あちらにない酒を僕が持ち込んで、利いてもらう。そうやって酒の利き方を教わりました。… 地酒に走り出した頃にいろんなことを教えていただき、感謝しかないです」。
この交流の中から村井さんは、問屋を通さない、特定の酒蔵との直接取引(「顔の見える商売」)に大きな可能性を見出していった。
「登さんが仰るんです、『うちとあの蔵は特別な関係やねん』と。僕もそんなふうに蔵と特別な関係になりたいなと、うらやましく思いました」。
初めてのPB 商品「梅庵」
ほどなくして村井さんは、登さんらの仲介により、梅乃宿酒造(葛城市)に出入りするようになった。そして1993 年の春、梅乃宿の協力により、自身初めてのPB 商品「梅庵」を発売。この酒は、村井さんの酒屋人生において極めて大きな意味をもった。
「酒瓶を抱いて寝たいと思うぐらいうれしかったんです(笑)。値段は一升瓶で2700 円。決して安くないお酒です。『こんな高い酒を誰が買うねん?』と親父に言われました。意地もあって、来る人来る人全員に試飲を勧めました。『梅庵』は純米吟醸の無濾過生酒で、低温で二年ほど寝かせたお酒でした。まだ無濾過生酒が珍しかった当時、その上熟成による何とも言えないとろみや円やかさは、従来の酒では決して味わえない美味しさが、たっぷり詰まっていました」。
努力の甲斐あって、「梅庵」は日本酒好きの間で人気となった。ある常連客が行きつけの居酒屋(橿原市)に「梅庵」を持ち込んだところ、店主が気に入り、そこから村井さんのもとに注文が入った。「酒が美味しかったら営業もしてくれると思いました。もう、めちゃくちゃうれしかった」と目を細める。
1996 年の夏には、この居酒屋を会場にして、自身初めての「お酒と料理を楽しむ会」を開催。そこで提供されたのはやはり梅乃宿の酒であり、蔵元の吉田暁(あきら)さんと、当時梅乃宿に蔵人として勤務していたフィリップ・ハーパーさん(現在は「玉川」醸造元・木下酒造の杜氏)がゲストに招かれた。
「小さな酒屋」の支え合い
「梅庵」の好評により確かな手応えを得た村井さんは、迷うことなく地酒ビジネスに専心した。その際には、自身と同じ道を行く同業者との関係、特に暁会(あかつきかい)(登さんをリーダーに梅乃宿の販売促進を目的として立ち上げられた会、本連載第1回参照)の存在が大きな意味をもった。メンバーの一人、もも太朗(斑鳩町)の店主、杉本憲司さんからも「色々と勉強させて頂きました」という。「もも太朗さんは県内すべての酒蔵を回っておられまして、『あの蔵はがんばってるから見に行った方がいいよ』とか、たくさん有益な情報をいただいた」と振り返る。前出「お酒と料理を楽しむ会」に関しても参考にしたのは杉本さんの先駆的な取り組みであった
(1990 年代半ば当時、酒販店主催のイベントはまだ珍しいものであった)。
また、村井さんは、独学で自店のHP を立ち上げ、2001 年よりネット販売に着手した。「小さな酒屋」としてはかなり早い動きであり、まさに手探りの挑戦であった。その際には、前年にHP を立ち上げていた、西の京地酒処きとら(奈良市)の店主、木寅伸一さん(暁会メンバー)から技術的なサポートを受けた。逆に、村井さんは、自身より若干遅く地酒ビジネスに着手した木寅さんに対して地酒関連の情報提供を惜しまなかった。まさに「持ちつ持たれつ」の関係であった。
「コメント力」という個性(強み)
「酒のセレクトショップ」を自称する登さんと同様、村井さんも酒蔵ならびに顧客との対面的なコミュニケーションを非常に重視してきた。現在、あべたやが扱う日本酒は、ほとんどが酒蔵から直接仕入れられるものであり、店主の厳正なテイスティングにより選ばれた希少価値の高い酒ばかりである。
そんな村井さんに対して、地酒ビジネスの先輩である登さんは「コメント力がずば抜けている」と評している。村井さんの「コメント力」は業界内でよく知られ、酒蔵側が自社の商品紹介に彼のコメントを援用するようなこともあるという。
では、村井さんの「コメント力」はいかにして得られたのだろうか。それは、「乾いたスポンジのようにいろんな知識を吸収」したことで得られたものだという。弛まぬ自助努力(文献研究、テイスティング、酒蔵とのコミュニケーションなど)を通して得られた豊富な情報をもとに、1990 年代後半には手書きの「あべたや瓦版」を定期的に発行。また、取引先の飲食店に対して手書きの地酒メニュー(コメント付き)を提供することもあった。HP を立ち上げた2000 年代初頭以降は、メールマガジン「酒のあべたや通信」を定期的に発行しつづけ、現在に至っている。最新の第564 号(2021年8 月29日発行)は9000 字超のボリュームとなっており、数多くのおすすめ商品それぞれに村井さん自身の丁寧なコメントが付されている。現在、メールマガジンの登録者数は7000 人を超えており、村井さんのコメントを心待ちにする顧客が全国に広がっている(※)。
※ メールマガジンのバックナンバーは、あべたやの HP( https://www.abetaya.com/)で閲覧可能である。
地酒とともに30年、還暦の年を迎えた村井さんもそろそろ事業承継を考える時期に差し掛かっている。7年ほど前から家業に従事する息子の翔一さんは、自然派ワインへの造詣が深く、村井さんによれば、「ワインの知識では息子にかなわない」とのこと。自然派ワインは、コロナ禍における「家飲み」需要の高まりとつながって大人気、今やあべたやの商品ラインナップにおいて重要な一角を占めるようになっている。「すでにうちの4 番バッターは息子なんです」と村井さん。次世代へのバトンタッチに向けて、視界は良好である。
「息子や娘と一緒にテイスティングノートを付けているんですが、息子や娘のほうが僕よりボキャブラリーが圧倒的に多いんですよ」。
登さんも認めた村井さんの「コメント力」は、今、次世代へと受け継がれようとしている。
さとびごころVOL.47 2021 autumn掲載
文・河口充勇(帝塚山大学文学部教授)