この記事はさとびごころVOL.51 2022 autumnよりの転載となります。内容は掲載当時のものです。
軒下に吊るされたハーブの乾燥葉が涼しげな影をつくっている。揺れるたび、風にほのかな甘い香りが混じる。遠い山から、鶯がひと鳴き。静寂がいっそう深まった。
三重県内の駅ビルで定期的に開かれる物産市の売場の前にはいつも人だかりができている。ヨモギ、スギナ、ドクダミ、山桑の葉、マタタビ、イタドリを原料にした野草茶など素朴な山の味覚を並べ、坂本さんは常連客に相槌を打ちながら耳を傾けている。彩りのよい手製の商品ラベルが山里の情趣を伝えて好ましい。
坂本さんは高野山の宿坊で8年間、厨房を任された。料理に関する知識と技術と旺盛な探究心を買われ、精進料理の味付けを担当。健康を意識して、旬の野菜をバランスよく豊富に取り入れた。
結婚を機に津市美杉村に移り住み、シメジ栽培に挑戦。20年ほど続けた後、友人の薦めもあって、今度は野草づくりに着手した。高野山時代に培った健康への関心はいよいよ高まり、以後、いっさい化学肥料を使わない。豆腐の粕に糠を入れて熟成させた堆肥を用い、収穫後は天日で干した後、さらに炭火乾燥を行う。口にする人の健康を気遣って、自然乾燥と決めている。こうして、物産市で手わたされる品々は安全で安心なことこの上ない。
歴史好きでもある。美杉村が秘める戦国大名・北畠氏の哀史を追ったり、古老を頼ってこの地に伝わる昔話を集め、絵画集『美杉村見てあるき』(1999年)にまとめた。神事や石仏、山、霊場、霊木、仏像、北畠氏関連史跡、桜などを訪ね、坂本さんは文、娘さんは絵を担当し、母娘で一冊の本を作った。「子どもたちに、自分の村にはこんな歴史があったんだということを知っておいてほしいと思って」作った本、故郷を離れる娘を想う母心そのものであった。文はムダ無く清らかで、絵は説明に偏らず、主張があって、かつ美しい。本の帯にこうある。「故郷を離れてみて、日本の文化の良さやふるさとの価値がわかった。お母ちゃんが村を思う気もちがようわかったし、私のためにも描かしてもらったんやに」。
美杉村に暮らして50年が過ぎた。空と土と雨風と言葉を交わし、木々の緑に心慰めながら、人生の半分を超える時間を村の自然と歴史を守ることに捧げてきた。土地開発に真っ向から反対したのも、村を守りたい一心からだった。
思うに、坂本さんにとって美杉村とは何であったか。ここへ移り住んだのは偶然だったのか、それとも、住むべく運命付けられていたのか。他所に暮らしていたなら、はたして『〇〇〇見てあるき』は実現していたか。話をうかがいながら、めぐりあわせの不思議を思った。今も美杉の歴史と自然に惹かれ続けているという。幼い頃、父が聞かせてくれた昔話が坂本さんをここまで連れて来た。山の緑が欅の柱と床の面と風を染める。遠い山から、山鳥がまたひと鳴き。坂本幸さん、83 歳。名前どおり、幸せの人である。
坂本幸さん (野草茶生産者) 取材・文 若林浩哉 (フリーライター)
さとびごころVOL.51 2022 autumn掲載